菊地臣一先生を追悼して

菊地臣一先生を追悼して

令和4年2月2日、元福島県立医科大学理事長兼学長の菊地臣一先生がご逝去されました。
白河総合診療アカデミーを代表して、前原和平センター長、
福原俊一臨床研究プログラムディレクターより追悼の意を捧げます。


福島県立医科大学寄付講座
白河総合診療アカデミーセンター長
前原和平

菊地臣一先生を悼む

2月2日、元福島県立医科大学理事長兼学長の菊地臣一先生がご逝去されました。心より哀悼の意を捧げます。

2015 年 4 月に開設した白河総合診療アカデミーは、2013 年 3 月に福島県の医療復興を目的とした県内病院視察のため福原俊一先生と福島医大病院長でおられた整形外科学講座教授紺野慎一先生が白河厚生総合病院を訪れたことが端緒となります。それからの 2 年間、寄付講座の設置、ならびに京都と奈良から 4人の教官を招聘できたことに関しても理事長兼学長でおられました菊地先生の強力なご支援があってこそ成し遂げられたことでした。白河総合診療アカデミーの開設は震災後の医療復興の一環でもありましたが、菊地先生はその生みの親と言っても過言ではありません。

白河総合診療アカデミー一同、生前のご厚情に深く感謝申し上げますとともに、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

※前原先生が寄稿されました、福島民報新聞掲載の記事はこちらです。➡2022年2月9日福島民報新聞掲載記事


福島県立医科大学 副学長、京都大学 名誉教授、
Johns Hopkins 大学 客員教授
福原 俊一

菊地 臣一先生の3つの力を偲ぶ

このたびの訃報に接し心より哀悼の意を表します。
菊地先生が、福島が産んだ類まれなる人物であった事は論を待たず、まさに巨星墜つ、の感を禁じ得ません。
菊地先生は多才多能の人でしたが、特に私は菊地先生の 3 つの力に関して述べます。(以下、ですます調略)

・先見力
菊地先生は、権威あるものも、未だ価値を認められていなものも、等しく白紙からご自分の目で吟味、評価された。1990 年代、整形外科学教室の教授であった菊地先生から思いがけずお手紙を頂いた。当時私が取り組んでいた臨床疫学やQOL は、誰からも認知されていない領域であったが、菊地教授は誰よりも早くその新しい価値に気づかれ、面識のない私にお声をかけられた。その後、「腰痛のアウトカム研究」 (日本整形外科学会委託事業)、「脊柱管狭窄症の診断サポートツール開発研究」(日本脊椎脊髄病学会委託事業)、などの研究責任者の重責を若造の私に与えられた。いずれも研究成果は国際学術誌に可視化された。後者は雑誌 JAMA の Review で取り上げられ、実地診療にも活用されている。

・決断力
2011 年に福島に起きた三重被害における菊地先生の八面六臂のご活躍の詳細は他に譲る。当時、菊地先生が学長であられた事は、福島県立医科大学及び福島県にとって最大不幸中のこの上ない幸運なことであった。2012 年、私は副学長を拝命(京都大学と兼務)し、「県外から 1 人でも多くの臨床医を呼ぶように」との困難な任を与えられた。苦し紛れの提案をいくつかしたところ、その場で即断即決された。その後の動きは極めて早かった。

・実現力
その一つが、福島県立医科大学の寄付講座 白河総合総合診療アカデミーであった。設置を決めてから専攻医募集まで時間がなく、菊地学長の即断即決がなければ、実現しなかった。私のアイディアは、「総合診療医の教員や専攻医に、臨床疫学を学ぶ資源と protected time を与え、研究実践を指導する」と言う付加価値をつけた新しいプログラムであった。ゼロから始めて 7 年後の今、当講座は活況を呈し、文字通りオンリーワン、ナンバーワンのプログラムに成長した。
副学長拝命から 10 年を経過した。ささやかながら約 40 名の臨床医を県外から招聘した。それもこれも、いみじくも 20 年前に菊地先生との出会いがなければ、何一つ実現しなかったことである。「全ては出会いである。あなたの人生の扉は他人が開く」は菊地先生の名言の 1 つであるが、果たしてその通りとなった。私の座右の銘ともなった。菊地先生が掘られた井戸からは、今も人が泉のように滾々と湧き出てきて、先生の精神を継承している。我々はこの井戸を決して涸らしてはならない。

副学長の辞令交付式で、菊地先生は一言「骨は拾います」とぽつりと言われた。
そのような事を言われた方は、私の人生で後にも先にも菊地先生だけである 。

ご冥福を心よりお祈りする。